専門学芸員・橋本道範
地域環境史という地域を限定した環境史を開拓する上で、対象地域の人口の推移という問題は、欠かすことができない問題です。人口は自然に負荷をかける度合いを規定する大きな要因であるためです。
古代は「郷」の数などから推計が可能で、また、江戸時代になると人口調査が行われるようになり、正確な人口がわかります。それらによれば、琵琶湖地域の人口は、古代には、だいたい10万人から20万人でしたが、江戸時代には、ほぼ65万人で持続するようになっていました。
とすれば、その中間で、飛躍的な人口の増加があったことになります。私は、この人口増加とそれに伴う自然への負荷の増大を調整したのが、現在の農業集落に繫(つな)がる「ムラ」であったと考えています。江戸時代の琵琶湖地域の「ムラ」の数は、1697年には1516でした。およそ1500の「ムラ」が排他的な領域をもって、自然と関わる中心的な主体となっていたのです(「町丁大字図」参照)。
では、この「ムラ」はいつ生まれたのでしょうか。平安時代の仏教書「後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)」には、「野洲南郡河尻村」が登場します。ところが、野洲川旧北流左岸、吉川(野洲市)の矢放神社が所蔵する大般若経というお経に書かれた1530年のメモ書きに「兵主郷内河尻村」と見えるのを最後に、その姿を消してしまいます。吉川に「川尻」という地名が残されているのがわずかな痕跡です。室町時代まで、ムラは永続的なものではありませんでした。
しかし、国宝・菅浦文書が残る菅浦(長浜市)のような「ムラ」もあります。菅浦文書によれば、最初の村掟(おきて)を定めたのが、1346年。これは、この時点で「ムラ」が自律していたことを示します。
ところが、わずかばかりの水田畠をめぐって、隣の大浦(長浜市)との間で激烈な紛争を繰り広げ、刑事訴訟に敗訴した菅浦は、1461年、大軍に包囲されて、滅亡の危機を迎えます。このとき菅浦は降参し、なんとか存続を許されました。結束の強い「ムラ」の典型とされる菅浦であっても、実は結果的に生き残っただけであり、いつ滅亡してもおかしくなかったのです。
では、どうして「ムラ」が確立していくのでしょうか。次回は生業に注目し、どのようにして自然への負荷を調整したのかを考えてみたいと思います。(専門学芸員・橋本道範)
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