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Saturday, May 16, 2020

平野啓一郎 「本心」 連載第242回 第九章 本心 - 西日本新聞

 僕がこの世界に誕生する以前の状態。元素レヴェルでは、この宇宙の一部であり、つまりは宇宙そのものになる未来。――僕は、宇宙物理学を信仰しているのだろうか。終わりが始まりに戻り、その一部がまた何かの生き物になるのかもしれない。それは最早(もはや)、一種の無時間であり、永遠ではあるまいか? その状態は、いつまでも持続する。宇宙である限り、僕はもう、消滅を恐れなくてもいい。

 誰一人例外なく、みんなそうなる。家族がいようがいまいが、金持ちであろうが貧乏であろうが、その人生が幸福であろうがなかろうが。自分であろうと、他人であろうと。……

 しかし、死が恐怖でなくなればなくなるほど、相対的に、僕たちの生は価値を失ってしまう。この、どうせいつかはなくなる世界を、良くしたいという思いも。――一体、この生への懐かしさを失わないまま、喜びとともに死を受け容(い)れることは可能なのだろうか。

 僕は、「死の一瞬前」に、吉川先生が、<母>によって心の安らぎを得られ、死の入口を静かに潜(くぐ)ることが出来るならば、協力すべきだと感じた。<母>にせよ、無から生じた存在ではなく、母がこの世界に存在した痕跡であるには違いなかった。

 死後もそうして、誰かの役に立つということを、母が願っていたとはとても思えなかった。しかし、僕自身は、幾分、心を慰められるところがあった。

 吉川先生が安楽死する日、僕は出勤前に<母>と会話し、

「気が重い仕事だけど、がんばってね。」

 と声を掛けた。<母>は、

「ありがとう。安らかな最期だといいけどね。」

 と、愁いを帯びた面持ちで言った。表情というのは、ふしぎだと今更のように感じた。内面と連動していると信じればこそ、僕は、表情から、相手の心を読み取るのだった。実際には、人間の喜怒哀楽も、それほど単純には顔に出ないはずだったが、ともかく、何かの感情はあるのだった。

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